Katate Masatsuka (方手雅塚)

Katate Masatsuka speaks.

Archive for the ‘History’ Category

Preliminary Exam in 1996

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1996年春学期、私は博士課程への試験(Preliminary exam)を受験した。
博士課程の指導教授は決まっていたが、研究費は無かった。
多くの場合、博士課程の学生はResearch Assistant(RA)となり、
授業料免除の上、給料まで出るが、私にはそのような保証はなかった。

留学費用は全て親に借金してもらったものだったが、それ以上の借金はとても厳しく、
たとえPreliminary examに合格しても、私は日本に一旦帰国するつもりだった。
アルバイトでお金を貯め、再びミシガンに戻る覚悟だった。
実際にアルバイト情報誌を取り寄せてアルバイト先を探していた。

試験の少し前、指導教授ではなかったVL教授との会話の中で、たまたまそういった事情を話す機会があった。
私は彼のクラスでトップの成績を取ったことがあった。
彼は「君のような学生がお金のせいで去るのはおかしい」と言った。

Preliminary examの直前、学科の責任者の立場にあったD教授に出くわし、

「VL教授が君にお金を与えるべきだと言ってきた。もし試験に合格すれば、君にTAを与えよう」

と言われた。TAはTeaching Assistantの略で、学科で教えられているクラスの手伝いをすれば、
学費免除となり、RAよりは劣るが給料も出る。VL教授の為にも、私は絶対に合格しなければならない。

自信はあった。試験の後、クラスでVL教授が言った。

「他の4人の受験者の答案を束ねても、Hiroの答案の山には及ばない。落ちるはずがない」

私はその言葉通り合格し、ミシガンに踏み止まった。

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Written by Katate Masatsuka

July 1, 2018 at 7:33 pm

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おっさんが語る、高校時代:思い起こせば80年代後半。 あの頃の わしはホッチキスやった。

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平成20年12月3日のインタビューより

おっさん: 思い起こせば80年代後半。 あの頃の わしはホッチキスやった。わしがパッとくわえて一噛みすれば、 文集でも何でも一発で完成や。しかし、やっぱり人間 の生徒と友達になるのは正直難しかった。なんせ、噛めばカチッと綴じてしまうもんやさかい、みんな怖がってしまうんや。「何の話してんの!」とか言うて顔近づけたら、みんな必死にのけぞってしまうんや。おまけに「あいつとキスしたら、口をホッチキスで留められてしまうで!」などと噂され る始末。 結局、人間のギャルフレンドなんか出来たことがなかったわ。 

西川氏: (よく真顔で話せるなあ) へえ、暗い高校時代だったんですね。

おっさん: まあ、基本的には暗かったな。先生に「絶対落ちる」と言われながら奇跡的に合格した高 校やったからか、一年の学力試験でいきなり偏差値20や。いろんな人間の人に「そんな 偏差値、人間じゃ有り得へんで、はははは!」などと笑わ れたもんや。さらに、二年のときには国語がボロボロで、先生に呼び出されて「おいホッ チキス。 お前、新聞読んでるか?」「は、はい」「ふん、どうせテレビ欄やろ」てな 具合に鼻で笑われた。 古文でも「ホッチキス君。 次の試験で70点以上取らないと 単位をやれないからね。 少なくとも人間の生徒で単位を落とすような生徒は前例が無い わよ」と言われて、あまりの悔しさに枕を ホッチキスで留めまくったこともあった。 とにかく試験といえば10点、20点 が当たり前で、挙句の果てには 「 だいたい何でホッチキスが高校に来るねん? 文房具屋へ帰 れ! 」 などと怒鳴られる始末や。 一方、部活動では、 初のホッチキス部員ということでの特別待遇だったのか、1年生の分際でいきなり上級生と一緒 に練習させてもらったりして。 しかし、それが逆にモチベーションを低下させ、結局1年生の夏 休み前にやめてしもた。

西川氏: (何でも途中で辞める悪 いクセは、もうすでにこのときからあったんやな)

おっさん: わしは悔しかった。 確かにわしはホッチキスや。しかし、それでも一生懸命生きてきたんや。 「誰かホッチキス持ってない?」と誰 かが言えば、「ホッチキスは持ってないけど、俺はホッチキスやで」とか言うて、笑いを取りながら皆の役に立ってきた。 このまま高校生活が終わってしもたら、わしはただの便利なホッチキスで終わってしまう。そんなんやったら、文房具屋を飛び 出してわざわざ高校に 入学した意味が無い。よーし、こうなったら俺は俺、否、ホッチキスはホッ チキスや!人間の常識にとらわれずに、自由に思うままにかましてやる! わしはそう 決心したんや。

西川氏: (同じ土俵で勝負しないってことか?)

おっさん:  試験なんか関係あるけ!ってなもんで、数学では独自の公式を導くのに熱中した。 国語の授業でのスピーチでは 「人間というのは誰かを差別することによって仲 間意識を高める性質を持っている。ゆえにイジメは無くならない。だいたい、教師の間でもイジメがあるのに、生徒間のイジメが無くなるはずがないではないか!」などと、先生の前で堂々と熱弁かました。 英語の試験では、わざわざ教科書に載っていない 単語やイディオムで英作文をし、それをバツにした先生に「意味は合ってまんがな! なんでバツやねん!」と詰め寄り「おい、ホッチキスよ。 頼むから俺が教えた 単語を使ってくれ」と懇願された。 サッカー部をやめても、密かに他校のゴルフ部に 潜り込み、関西ジュニア選手権にエントリーして豪快に予選落ちした。そうやって、わしはとにかく猛進した。そして、いつの日か、「宇宙は無限だと? 笑わせんな、アホ! いつかきっと宇宙の端っこを見つけて、この口でバチコーンと綴じてやる!」と、これまた人間の常識を超えた大きな夢を抱くようになっていたんや。そうして、3年生の2学期に大学進学を決意、 本格的に人間の受験勉強を始め、何とかギリギリ的に航空宇宙学科に合格。 史上初のホッチキス大学生としてデビューすることとなったんや!

Written by Katate Masatsuka

January 17, 2018 at 7:20 pm

平岡克己教授の思い出

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東海大学航空宇宙学科の故平岡克己教授。
非常に朗らかで、知識が深く幅広く、スマートな印象。
また、思い出せば笑顔しか出てこないほど、よく笑ってくれた先生だった。
米国大学院への推薦状をお願いした時には、二つ返事で引き受けてくださり、
「これで書くんだよ」と、オリベッティーのタイプライターを嬉しそうに
見せてくれたのを今も覚えている。

卒業してからも、私が東京を訪れる際には連絡し、
忙しい中、食事に連れていって下さったのを思い出す。
最近でも、米国の学会で度々お会いすることがあった。
2011年のハワイでの学会では、私の「特攻野郎Aチーム」的な学会発表
に来てくださり、笑ってもらえたのが嬉しかった。

東海大学時代、そんな平岡先生の講義を、私は全て受講した。
それは振動工学、弾性力学、空気力学など多岐にわたる。
それらの講義ノートは今も、NASAラングレー研究所にある
私のオフィスの本棚に並んでいる。

Written by Katate Masatsuka

September 10, 2015 at 8:38 pm

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回想:青春の日本人学校 – Koby International Academy

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ミシガン大学大学院に入学して2年ほど経った頃、
ある人が私を探していると人づてに聞いた。
それは、Koby International Academy (KOBY)のコービィ氏だった。
連絡を取り、以前ちょくちょく顔を合わせた酒場で彼と再会した。
彼は「補習校をやめて、俺のところに来ないか」と言った。

その時代、デトロイト近郊には本格的に帰国受験に対応した予備校がなかった。
個人経営の学習塾は存在したが、帰国受験用の英語や数学等の科目を教える塾は無かった。
コービィ氏は、いずれ日本に帰国する日本人子女の為の本格的な学校を作るべく、
通訳として活躍していた会社を辞め、1993年、KOBYを設立したのだった。
一通り話を聞き、私は彼の話に共感した。
「それは是非ともやりましょう」
私は臨時講師要員として待機中だった補習校をやめた。

労働許可を取得し、私は大学院に通いながらKOBYで教え始めた。
それはちょうど私が結婚したころだった。
平日は夕方、土日は朝から、毎日のように教えた。
小学校の理科、中学校の数学、理科、高校の数学、物理、さらには
大学のMBAに在籍する社会人の方の統計学のチューターを勤めたこともあった。

私は自分の役割について明確なイメージを持っていた。
KOBYに入ってくる多くの生徒達から「俺は勉強する為にKOBYに来たんだ」
という言葉をよく聞いた。彼らを失望させてはならない。
私は「学べなければKOBYではない」をモットーに毎回の授業に望んだ。

その後、KOBYは飛躍的な成長を遂げた。
塾、予備校に止まらず、補習校、幼稚園、全日制にまで発展した。
そんな中、私は「青春の高校数学」全3巻を完成させた。

2007年、私はバージニアへ引っ越すことになり、KOBYを離れた。
その翌年の暮れ、KOBYはおよそ15年の歴史にピリオドを打った。
学校自体は同じ場所で別の学校として存続しているが、
私にとっては一つの情熱の時代の終わりを告げる出来事だった。
KOBYでのあの10年は本当に熱い10年だった。

Written by Katate Masatsuka

March 3, 2013 at 10:26 pm

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回想:長いポスドク時代の最終話

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ポスドク6年目の2007年4月、私はボルドー大学に滞在中だった。
2週間の滞在が終わる頃、突然、所属していたミシガン大学からEメールが届いた。
「研究費が更新されない見込みなので、7月末で解雇となります。」
驚くことはない、ポスドクにはよくあることだ。
私は3ヶ月で新しい職を見つけなければならなかった。
すぐにボルドーから数少ない知り合いにメールを送った。
その中の一人に、NASAラングレー研究所の人がいた。
返事はなかった。

ミシガン大学に戻り、上司にあたる教授と話したが、
どうにもならないことは分かっていた。
彼は、心配しながらも、いつものように黙ってヨーロッパへ消えた。
もう一人の教授は「いつまでもポスドクはできない。決断する時かもしれない」と言い、
ある会社を紹介してくれた。私はその会社に連絡するのをためらった。
私には研究を続けなければならない理由があった。
それは一つのアイデアだった。
まだ生まれたばかりの卵だったが、その成長を想像すれば身震いがした。
私が生んだアイデアは、私が育てなければならない。
何とか教授職や研究職を求めたが、極端に実績の少ない私に興味を持つ所などどこにもなかった。

数週間後、面識のないNASAの研究者からEメールが来た。
「研究者を一人探しているが、市民権あるいは永住権を持っているか?」
「永住権は持っている」
「詳しいことを調べて、また連絡する」
しばらく経ち、
「面接に来れるか?」
「もちろん」
「研究者募集の広告を出すから、応募したければ応募してくれ」
私はすぐに応募した。面接に呼ばれ、6月14日、バージニア州へ飛んだ。
一時間の プレゼンテーション を行い、多くの人と議論をした。
あらゆる点でフィットし、私以外に雇うべき者がいるのかと思ったが、
良い返事をもらえないまま、とりあえずミシガンに戻った。

失業まで残り一ヶ月半。
他にオファーをもらえそうなところは皆無だった。
ちょうどその頃、アルバイトをしていた日本人学校は春学期を終了する頃だった。
私は生徒達に「うまくいったらこれで最後になるが、うまくいかなかったら
秋学期にまた会いましょう」と言って、学期最後の授業を終えた。

その後何をしていたのか、今となっては思い出せない。
そして7月31日。失業前日。
電話が鳴った。
オファーを伝える電話だった。
私は研究者として生き残った。

Written by Katate Masatsuka

November 21, 2012 at 4:57 pm

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小黒晴夫教授とは

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小黒晴夫教授は、西川君の東海大学時代の指導教官。
東大物理学科出身、カリフォルニア工科大学航空学科へ留学、
その後ノースキャロライナ、シンシナチ大学で12年間教え、
帰国してからは東海大学航空宇宙学科で教えていた。
色白で白髪、英語交じりの日本語、欧米的しぐさが特徴で、
他の教授からも一目置かれる存在だった。
いつか米国の大学院に学生を送り込みたいと思っていた小黒教授の講義は、
テキストが全て最新の洋書、毎週のHomework、そして厳しい試験。
多くの学生に敬遠され、受講生はいつもごくわずかだった。

大学入学時から米国大学院を目指していた西川君は、
そんな小黒教授の講義に引き付けられ、流体力学、
空気力学の基礎を小黒教授から徹底的に学ぶこととなった。
最後は小黒教授の下で卒論を書いたが、その年の小黒ゼミ生は
西川君ただ一人だった。ある教授は「贅沢なゼミだ。
俺が教えて欲しいぐらいだ」と言った。

小黒教授のゼミでは、3年に1人の割合で東京大学の大学院に合格する者が
出るという伝統があり、小黒教授は「優秀な学生はみんな東大に
行っちゃうんだよ」とよく言っていた。が、西川君に東京大学の大学院
を受験するように勧めたのは小黒教授だった。
合格すれば米国の大学院へ良い推薦状が書けるからという理由だった。
果たして合格したとき、小黒教授は「まだアメリカに行きたいかい?」
と西川君に聞いた。西川君は「もちろんですよ!」と即答した。
しかし、この合格から西川君の苦悩の日々が始まったのだった。。。

いろいろあって、やはり8月末に渡米。後に、東海大学の同窓会だよりに、

「この3月に卒業して東大の大学院に進学した西川君が、
長年の夢が実現して、ミシガン大学航空宇宙大学院留学の為、
この9月に出発したことも、最近の最も嬉しい事件の一つでした」

と小黒教授は書いた。

渡米後も手紙の交換を続け、結婚のお祝いも頂いた。が、
いつの頃からか連絡がなくなり、2003年、亡くなっていたことを知った。

小黒教授の講義ノートは今も大事に持っている。
その影響が如実に反映されているのが「I Do Like CFD, VOL.1」である。
よりしっかりした内容となる改訂版を小黒教授に捧げようと思っている。

Written by Katate Masatsuka

April 17, 2011 at 9:15 pm

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