Katate Masatsuka (方手雅塚)

Katate Masatsuka speaks.

Archive for the ‘History’ Category

平岡克己教授の思い出

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東海大学航空宇宙学科の故平岡克己教授。
非常に朗らかで、知識が深く幅広く、スマートな印象。
また、思い出せば笑顔しか出てこないほど、よく笑ってくれた先生だった。
米国大学院への推薦状をお願いした時には、二つ返事で引き受けてくださり、
「これで書くんだよ」と、オリベッティーのタイプライターを嬉しそうに
見せてくれたのを今も覚えている。

卒業してからも、私が東京を訪れる際には連絡し、
忙しい中、食事に連れていって下さったのを思い出す。
最近でも、米国の学会で度々お会いすることがあった。
2011年のハワイでの学会では、私の「特攻野郎Aチーム」的な学会発表
に来てくださり、笑ってもらえたのが嬉しかった。

東海大学時代、そんな平岡先生の講義を、私は全て受講した。
それは振動工学、弾性力学、空気力学など多岐にわたる。
それらの講義ノートは今も、NASAラングレー研究所にある
私のオフィスの本棚に並んでいる。

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Written by Katate Masatsuka

September 10, 2015 at 8:38 pm

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回想:青春の日本人学校 – Koby International Academy

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ミシガン大学大学院に入学して2年ほど経った頃、
ある人が私を探していると人づてに聞いた。
それは、Koby International Academy (KOBY)のコービィ氏だった。
連絡を取り、以前ちょくちょく顔を合わせた酒場で彼と再会した。
彼は「補習校をやめて、俺のところに来ないか」と言った。

その時代、デトロイト近郊には本格的に帰国受験に対応した予備校がなかった。
個人経営の学習塾は存在したが、帰国受験用の英語や数学等の科目を教える塾は無かった。
コービィ氏は、いずれ日本に帰国する日本人子女の為の本格的な学校を作るべく、
通訳として活躍していた会社を辞め、1993年、KOBYを設立したのだった。
一通り話を聞き、私は彼の話に共感した。
「それは是非ともやりましょう」
私は臨時講師要員として待機中だった補習校をやめた。

労働許可を取得し、私は大学院に通いながらKOBYで教え始めた。
それはちょうど私が結婚したころだった。
平日は夕方、土日は朝から、毎日のように教えた。
小学校の理科、中学校の数学、理科、高校の数学、物理、さらには
大学のMBAに在籍する社会人の方の統計学のチューターを勤めたこともあった。

私は自分の役割について明確なイメージを持っていた。
KOBYに入ってくる多くの生徒達から「俺は勉強する為にKOBYに来たんだ」
という言葉をよく聞いた。彼らを失望させてはならない。
私は「学べなければKOBYではない」をモットーに毎回の授業に望んだ。

その後、KOBYは飛躍的な成長を遂げた。
塾、予備校に止まらず、補習校、幼稚園、全日制にまで発展した。
そんな中、私は「青春の高校数学」全3巻を完成させた。

2007年、私はバージニアへ引っ越すことになり、KOBYを離れた。
その翌年の暮れ、KOBYはおよそ15年の歴史にピリオドを打った。
学校自体は同じ場所で別の学校として存続しているが、
私にとっては一つの情熱の時代の終わりを告げる出来事だった。
KOBYでのあの10年は本当に熱い10年だった。

Written by Katate Masatsuka

March 3, 2013 at 10:26 pm

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回想:長いポスドク時代の最終話

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ポスドク6年目の2007年4月、私はボルドー大学に滞在中だった。
2週間の滞在が終わる頃、突然、所属していたミシガン大学からEメールが届いた。
「研究費が更新されない見込みなので、7月末で解雇となります。」
驚くことはない、ポスドクにはよくあることだ。
私は3ヶ月で新しい職を見つけなければならなかった。
すぐにボルドーから数少ない知り合いにメールを送った。
その中の一人に、NASAラングレー研究所の人がいた。
返事はなかった。

ミシガン大学に戻り、上司にあたる教授と話したが、
どうにもならないことは分かっていた。
彼は、心配しながらも、いつものように黙ってヨーロッパへ消えた。
もう一人の教授は「いつまでもポスドクはできない。決断する時かもしれない」と言い、
ある会社を紹介してくれた。私はその会社に連絡するのをためらった。
私には研究を続けなければならない理由があった。
それは一つのアイデアだった。
まだ生まれたばかりの卵だったが、その成長を想像すれば身震いがした。
私が生んだアイデアは、私が育てなければならない。
何とか教授職や研究職を求めたが、極端に実績の少ない私に興味を持つ所などどこにもなかった。

数週間後、面識のないNASAの研究者からEメールが来た。
「研究者を一人探しているが、市民権あるいは永住権を持っているか?」
「永住権は持っている」
「詳しいことを調べて、また連絡する」
しばらく経ち、
「面接に来れるか?」
「もちろん」
「研究者募集の広告を出すから、応募したければ応募してくれ」
私はすぐに応募した。面接に呼ばれ、6月14日、バージニア州へ飛んだ。
一時間の プレゼンテーション を行い、多くの人と議論をした。
あらゆる点でフィットし、私以外に雇うべき者がいるのかと思ったが、
良い返事をもらえないまま、とりあえずミシガンに戻った。

失業まで残り一ヶ月半。
他にオファーをもらえそうなところは皆無だった。
ちょうどその頃、アルバイトをしていた日本人学校は春学期を終了する頃だった。
私は生徒達に「うまくいったらこれで最後になるが、うまくいかなかったら
秋学期にまた会いましょう」と言って、学期最後の授業を終えた。

その後何をしていたのか、今となっては思い出せない。
そして7月31日。失業前日。
電話が鳴った。
オファーを伝える電話だった。
私は研究者として生き残った。

Written by Katate Masatsuka

November 21, 2012 at 4:57 pm

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小黒晴夫教授とは

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小黒晴夫教授は、西川君の東海大学時代の指導教官。
東大物理学科出身、カリフォルニア工科大学航空学科へ留学、
その後ノースキャロライナ、シンシナチ大学で12年間教え、
帰国してからは東海大学航空宇宙学科で教えていた。
色白で白髪、英語交じりの日本語、欧米的しぐさが特徴で、
他の教授からも一目置かれる存在だった。
いつか米国の大学院に学生を送り込みたいと思っていた小黒教授の講義は、
テキストが全て最新の洋書、毎週のHomework、そして厳しい試験。
多くの学生に敬遠され、受講生はいつもごくわずかだった。

大学入学時から米国大学院を目指していた西川君は、
そんな小黒教授の講義に引き付けられ、流体力学、
空気力学の基礎を小黒教授から徹底的に学ぶこととなった。
最後は小黒教授の下で卒論を書いたが、その年の小黒ゼミ生は
西川君ただ一人だった。ある教授は「贅沢なゼミだ。
俺が教えて欲しいぐらいだ」と言った。

小黒教授のゼミでは、3年に1人の割合で東京大学の大学院に合格する者が
出るという伝統があり、小黒教授は「優秀な学生はみんな東大に
行っちゃうんだよ」とよく言っていた。が、西川君に東京大学の大学院
を受験するように勧めたのは小黒教授だった。
合格すれば米国の大学院へ良い推薦状が書けるからという理由だった。
果たして合格したとき、小黒教授は「まだアメリカに行きたいかい?」
と西川君に聞いた。西川君は「もちろんですよ!」と即答した。
しかし、この合格から西川君の苦悩の日々が始まったのだった。。。

いろいろあって、やはり8月末に渡米。後に、東海大学の同窓会だよりに、

「この3月に卒業して東大の大学院に進学した西川君が、
長年の夢が実現して、ミシガン大学航空宇宙大学院留学の為、
この9月に出発したことも、最近の最も嬉しい事件の一つでした」

と小黒教授は書いた。

渡米後も手紙の交換を続け、結婚のお祝いも頂いた。が、
いつの頃からか連絡がなくなり、2003年、亡くなっていたことを知った。

小黒教授の講義ノートは今も大事に持っている。
その影響が如実に反映されているのが「I Do Like CFD, VOL.1」である。
よりしっかりした内容となる改訂版を小黒教授に捧げようと思っている。

Written by Katate Masatsuka

April 17, 2011 at 9:15 pm

Posted in About Author, History

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